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上杉鷹山
  

  
構造不況の米沢藩を甦らせた「上杉鷹山」について

〜今の政治と経営に求められるもの〜
  

  
米沢の町

米沢の町は、人情が厚く、思いやりがあり、外出する際にも鍵をかけずに出かけるなど、治安がよく、そして、生活は、質素、倹約で、暮らしやすいところだと聞く。

城下町として、武家屋敷が残っているが、敷地は小さく50〜60坪。土塀の代わりに、「ウコギ」が生垣として植えられている。

「ウコギ」は薬用植物で、滋養強壮、腹痛、冷え性に効果があり、飢饉の折は、食用に用いたという。

今もって米沢は、藩主上杉鷹山の精神が、市民の心に深く息づいている町だと言われている。鷹山は誠実な人間であったと言われており、彼が経営に成功したのは、原点に他人への思いやり・労りがあったこと、そして何よりも人々に、愛という心を甦らせた事だと言われている。

政治家の鑑

ジョン・F・ケネディ大統領は、日本人記者団と会見して、「あなたが最も尊敬する日本人は誰か」と質問されたとき、即座に「それは上杉鷹山です」と答えたという。ケネディは、日本の政治家として、何よりも国民の幸福を考え、民主的に政治を行い、そして、「政治家は潔癖でなければならない」と言って、その日常生活を、一汁一菜、木綿の着物で通した鷹山の姿に、自分の理想とする政治家の姿を見た、といわれる。

鷹山の生涯

上杉鷹山は、破産状態にあった米沢藩を見事に立て直した、江戸時代屈指の名君と言われている。寛延4年(1751年)誕生、文政5年(1822年)没。日向高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれ、1760年米沢藩主・上杉重定の養子となり、治憲と改名し、1767年第9代米沢藩主となる。「鷹山」は藩主引退後の号である。

鷹山の妻は心身障害者だったが、弱者への思いやり、政治に取り組む厳しい姿勢を、妻から学んだという。

藩の財政破綻

名門上杉家は、関ヶ原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に厳封され、さらに3代藩主・綱勝が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶は免れたものの、さらに半分の15万石に減らされることになる。

収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲し、家臣団の出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾き、深刻な財政破綻に陥った。

鷹山の改革断行

改革は、「愛と労りがなくてはならない」というのが基本理念であった。そして経営改革は、藩政府を富ませるために行うのではなく、藩民を富ませるためにやる、という信念を持っていた。

「自分が変わらねば、組織が変わらない」。藩を変えるためには藩士変わらなければならない。鷹山は自分を変えていくことで、全員に「自己改革」を訴え、飽くなき執念と信念から奇跡を生んだ、といわれている。

※ 鷹山の名言=「なせば為る、成さねば為らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」

財政の再建

鷹山は、自ら進んで倹約、一年の生活費は、それまでの7分の1である209両で衣服や食事、本などをまかなったという。

日常の食事は一汁一菜、衣服は木綿、女中数十人から9人に減らし、家臣達に倹約を求めるだけでなく、進んで質素な暮らしを実践した。

財政難を克服するため、「御領地高御元払帳」という1年間の米沢藩の収入、支出、借金などを記載した帳簿を作り、財政全体を明らかにして、協力と理解を求めた。

産業の振興

財政を安定させるためには、農業生産を増やし、安定させることが重要だと考え、農民だけでなく、藩士に対しても田畑の開発を促した。

これは藩士の意識改革を読んだ施策であり、本来、米が育たなかった土地にも作れるようにはしたが、自然条件には限界があり、土地にあった植物を植えるべきだと考え、漆、楮(こうぞ)や桑、あるいは藍(あい)、紅花などを栽培した。

漆から塗料ゃ蝋を採り、楮からは紙を漉きだし、桑からは生糸を織りだし、さらに絹織物まで作った。原料に付加価値を加えて製品化し、それによる収益を上げようということだった。

鷹山は労働力についても、老人に、たとえば鯉に餌をやったり、鯉を育てたり、鯉を売って得た利益から何がしからの配分をする。また、織物を織ったり、蚕から糸を紡ぎ出すには、藩士達の妻やその母がいるではないか、家事に縛り付けておくのは決して得策ではない、と仕事に就かせたという。

鷹山は、「人間は、働かなくては生きがいを失う」と一人ひとり働く道筋をつけたと言われている。

「伝国の辞」

鷹山が、前藩主(鷹山の養父)の実子・治広に藩主の座を譲るときに与えた三か条である。

 一、国家は、先祖より子孫に伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候。

 一、人民は国家に属したる人民にて、我私すべきものにはこれなく候。

 一、国家人民の為に立てたる君にて、君の為に立てたる国家人民にはこれなく候。

ここでいう「国家」とは、藩のことである。当時の封建領主は全て自ら私しており、藩主や藩士達の税源としか考えていなかった。

これに対して鷹山は、領土領民はもともとその藩に属しているのであり、藩主はその領土領民に奉仕する為に存在しているのだ、と論じている。主権在民の近代民主主義に相通ずる考え方である。

愛と思いやりの名経営者・鷹山

鷹山の経営改革が成功したのは、すべて「愛」であったと思う。経営改革を顧客のものと設定し、それを推進する社員に限りなき愛情を注いだ。また痛みを覚えなければならない人々への愛を惜しまなかった。

鷹山を今日見直す意味は、その点にこそあるのだと思われる。

2010年5月1日 古東正敏
  

ウコギの生垣
 

 
 
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