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ご 意 見
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「しばらくそこでご厄介になってるときに、綺麗なおばさんが食べ物いっぱい持ってきたんです。ニシンのお魚の干したみたいなのだとか、豆だとか。美味しくてねえ。ガムシャラのように食べましたよね」 「そしたらある日、おばさんと出かけないって言われて。食べ物いっぱいもらえるから嬉しくて電車に乗ったんです。そしたらずうっと降りないんですね。おばさんどこいくの?って言ったら、あんたたち北海道の小樽に行くのよって。うちの子になったのよって」 このころ、姉は国鉄中央線の高円寺駅で働いており、寮に暮らしはじめていた。鈴木さんと弟は姉に知らせることもできないまま、東京を離れ、新しい「お母さん」のもとで暮らすことになったのだ。 鈴木さんは驚いたが、彼女たちに何かを選ぶことはできなかった。あとから知った話だが、小樽の「お母さん」は病気で子どもを亡くしていたのだという。 縁もゆかりもない北海道。軒先に、ニシンが大量に干されていたことに「食べ物がこんなにたくさんあるのか」と、衝撃を受けた。ニシン漁の最盛期は4〜5月。空襲から、数ヶ月後のできごとだろう。 しかし、当初は優しかった「お母さん」も、だんだんとふたりをぞんざいに扱うようにもなった。暴言や暴力、ときには2階から投げられたこともあった。 不憫に思ったのか、隣のおばさんがそのたびに助けてくれた。お菓子をくれることもあった。しかし、耐え切ることは難しかった。 「最初は優しかったんですけれどね。年中叩かれて、暴力ですよね。あたしは母に似て気の強い女の子だから、かわいくなかったそうです。あるとき弟がいなくなって、探しにいくと、小樽の駅にうずくまってました。ご飯は食べられなくてもいいから、東京に帰ろうって言うんです」 東京に返してください、と「お母さん」に頼んだ。彼女は、「返してあげる」と言った。 ひたすらに目指した「高円寺」
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帰り道は、弟とふたりだけだった。
「小樽から出て、青函連絡船に乗りましたでしょ。お弁当買ってあげるね、と言ったきり、お母さんはいなくなってしまって。そのあと船の中で雑魚寝していると、どっかのおじさんに『お前ら捨てられたんだぜ』って言われましたよ」
「弟を置いて甲板に出て、後にも先にもあれだけ泣いたのはそのとき初めて。どうしようと、思いましたもん。そして思い出したのが高円寺という駅だったんです。高円寺にいけば、姉がいるって。馬鹿の一つ覚えみたいに、それからずっと、高円寺、高円寺って…」
鈴木さんは船のたどり着いた青森から、たったふたりで、東京・高円寺を目指すことにした。お金も食べ物も持っていない。どこかの駅に着くたびに「めぐんでください」と言って、まわった。
「東京はすごい空襲があったと聞いたが、そのときの孤児(みなしご)かって、家でお風呂に入れてくれて、ご飯を食べさせてくれて、おにぎりを作って持たせてくれた駅員さんもいましたね。お布団にも寝かしてくれて。お弁当をわけてくれた人も、いました」
このころ、もう戦争が終わっていたのか、鈴木さんは覚えていない。ただ、街並みが少し雪化粧していた記憶もあるという。ともすると、時期はおそらく1945年末ごろだろう。つまり、時代はすでに「戦後」だ。
「あたしね、終戦がいつかなんかまったく覚えてないんです。だって関係ないでしょう。弟とふたりきりで必死に生き延びようとしているあたしに、戦争が終わったかどうか、なんて。終戦なんて、あたし考えていなかったと思いますよ」
空襲で亡くなったことを記した母親と姉の戸籍。戦後、鈴木さんが更新するまでは「生きている」ことになっていたという |
高円寺駅について姉と出会ったときは号泣し、抱き合った。しかし、やっとたどり着いた姉の寮でも、長く暮らすことはできなかった。
「物がない時代でしょう。いろいろと、なくなるんですよ。そうすると姉が表に呼び出されてね。あたしたちが、疑われてたんですよ」
行く場所は、もうどこにもなかった。姉は、鈴木さんと弟を、上野の地下街へと連れていった。
1946年の上野の地下街は、家を焼け出され、行き場を失った人たちであふれていた。なかには鈴木さんのような、戦災孤児も少なくなかった。
厚生省(当時)による1948年の調査によると、孤児の総数は12万人。養子や浮浪児、さらに米軍統治下だった沖縄の戦災孤児はこの数に含まれていない。
多くは鈴木さんのように親戚をたらい回されたり、子どもたちだけで満州などの外地から引き揚げてきたりしていた。そうした子たちが集ったのが、全国各地の駅だった。
「あのころの上野の地下街はね、夜になったら人でいっぱいですよ。朝になると誰か何人か死んでいる。体にとんとんと叩いて反応がなくなってるんですよね。それを男の人たちが抱えて、表に連れて行く。そんなのが毎日です」
「姉にはね、奥に行っちゃだめ。入り口の方にいなさいって言われていました。何かあったら大変だからでしょうね。それで、3、4日に1回、食べ物をみんなにわからないようにして持ってきてくれましたよ。お芋の蒸したのとかさ。でも、バレたら盗られてしまうから、布切れを被って音を立てずに食べるんですよ」
ふたりは薄暗い、地下街の端に座り込んで過ごした。夜は焦げ付いた布団にくるまって、眠る日々だ。
お手洗いは上野公園を頼った。顔や身体は公園の水道で洗い、空き缶をコップ代わりにして、水を汲んだ。
1946年7月26日の読売新聞。上野駅の戦災孤児たちの写真が掲載されている (読売新聞) |
とはいえ、食べ物は姉からもらうものだけで足りるわけがなかった。鈴木さんはいう。
「空腹は、本当につらいんですよ。立っていられませんもん。3日も4日も水道の水だけ飲んでたら、どこでもいいから横になりたくなっちゃう。空腹っていうのはそれくらい、ものすごくつらいから」
鈴木さんは、弟の分の食べ物を探すために、盗みを始めた。同じような境遇の「浮浪児仲間」ができるようになっていたからだ。ヨリコ、と呼ばれていた。
「おのぼりさんとかが、上野公園にいるじゃないですか。そうすると、だいたいおにぎりやお弁当を持っているのがわかる。一番年上のお兄ちゃんがきちんと統制をとって、あたしは女の子だから相手が用心しないからって、おのぼりさんから盗む役をしていました。次の子がいるから、今度はその子に渡して逃げる。事前に決めた上野の山のある場所に集まって、みんなで分けて食べましたよね」
西郷像のまわりでは、盗みはしないというのが子どもたちの不文律だった。大人が多く、すぐに捕まってしまうからだ。「もっとね、山の奥の方が良いんですよ」。
弟には「お姉ちゃんが帰ってくるまで、ここにいるんだよ」と言った。盗んだ食べ物をどうにか持って帰って、食い繋いだ。
「闇市でも盗みをしましたね。仲間に教えてもらったのはね、とにかく盗んだらその場で口に入れるっていうこと。逃げたら大人に追いつかれちゃうからね。食べたら自分のものになる。まんじゅうとか、手に取りやすいものをよく盗みましたね」
こうした孤児たちに対し、大人たちも当然良い顔はしなかった。邪魔なんだよ、と蹴り飛ばされている孤児もいた。盗んだことを咎められ、ボコボコに殴られている孤児もいた。自分たちはごみのように扱われている、と感じた。
でも、助けてくれる大人もいた。ときたま行政による「浮浪児狩り」があったが、闇市のおばさんが出店の下に隠してくれたことがあった。
浮浪児狩りとは、戦災孤児たちによる治安の悪化や、犯罪者になることを恐れた当局による収容措置だ。多くはそのまま孤児院に連れていかれることになったが、その環境は決して良いわけではなく、収容を拒んだり、脱走をしたりする子どもたちが少なくなかった。
「浮浪児狩りにあうのは本当に嫌だったの。檻に入れられると聞いていたから。でも、こうやってね、小樽のお隣さんや、東北の駅員さんみたいにね、必ず手を差し伸べてくれる人がいたんですよ」
1945年10月26日の読売新聞。上野駅の戦災孤児を収容したという記事が出ている |
2ヵ月ほど上野の地下街で過ごした後、弟は姉が見つけた東京・荻窪の孤児院(児童養護施設の前身)に入ることになった。
一方の鈴木さんは定員の都合で孤児院には入ることができず、茨城の親戚に引き取られることになった。
そこで待っていたのも、やはりひどい虐めだった。食事も1日一膳しか食べることができず、「あんたを引き取る謂れはない」などと暴言を吐かれたのだ。
少しして、さらに別の女性に引き取られることになった。血縁関係はなかった。
「女の子だから役に立つ、と思ったらしいですよ。お兄さんは辛くあたってきましたが、お母さんはきちっと弁えた人でした」
「茨城のお母さん」は、鈴木さんを小学校に入れてくれた。本来であれば3年生のはずだったが、2年生から復学することになったという。
「学校に行けるようになったとき、はじめて戦争が終わったと思えましたね。やっと、人並みに、子どもらしく生活できたから。あたしもね、お手伝いをがんばりました。学校から帰ってくればお米は研ぐし、お湯を沸かしたりお風呂やったり……」
茨城で学校に通っていたころの鈴木さん(右端)。 ひとりだけ年上だったことが、恥ずかしかったという |
中学を卒業するまで茨城で過ごして、そのまま東京で就職。給料を前借りして、ソニーのトランジスタを買い、「茨城のお母さん」に送った。
「茨城のお兄さん」に生まれた子どものため、デパートに朝から並んで、ブームになった「ダッコちゃん人形」を買ったこともあった。どちらも、せめてもの恩返しにという気持ちからだった。
東京に帰ってきてから、一度だけ孤児院の弟に会いに行ったことがある。
しかし、弟は鈴木さんのことをまったく、覚えていなかった。荻窪からほど近い、吉祥寺の井の頭公園にふたりで出かけたが、一言も、口を開かなかった。
それから数年後、弟は19歳で自殺した。遺書には「自分の持ち物は孤児院に寄付をしてください」と記されていた。家族に対する言葉は、ひとつもなかった。
「そのころのあたし、銭湯とかにいって、親子が仲良くしているところとかを見ると、ムカつくこととかもあったんです。なんで、自分はと思ってしまってね。こういう道を、自分が選んだんじゃないんだもの。たまたま東京の下町にいただけですから。嫉妬、みたいな感情だったのかもしれませんね」
鈴木さんは、22歳で結婚。式には、茨城のお母さんも呼んだ。夫との間には3人の子どもをもうけ、育て上げた。
結婚した夫と、ふたりで |
戦後、自らが戦災孤児であることは、あまり多く語ってこなかった、という。そんな、鈴木さんにとってあの戦争とは、何だったのか。いま、何を思っているのか。
「戦争で、すべてが変わってしまった。あたしばかりじゃないでしょう。紙一重で助かった人も、それからの人生なんて生優しいものではなかったんだと思います。あたしだって助かりましたけど……」
「あたしには、政治のこととか、小難しいことはわかりません。でも、陸軍海軍のエライ人、東條英機、そして官僚が戦争を起こしたわけですよね。それなのに、私たちに、国が何かをしてくれるわけでもなかった。何もしてくれなかったですよね」
「あとね、なんでもかんでも天皇陛下万歳と教えられてきたせいかもしれないけど、なんで天皇陛下が止めてくれなかったんだろうって気持ちが、ありますね……。止めてくれていれば、家族も死なず、バラバラにならなかったのに。こんなこと言っていいのかわからないけれど、あたし、気持ちをもってきどころがないんです」
鈴木さんは「でもね、これもあたしの人生だから。結婚してからは幸せでしたし、終わりよければ、全てよしですよ」と気丈に笑う。しかしその一方で、こんな言葉も、つぶやいた。
「あたし、どこかでずっと突っ張って生きてきたんですよね。誰かの人の顔色を見て、背伸びしてきた。この年まで、ね」
by 籏智 広太(はたち・こうた) BuzzFeed News Reporter, Japan
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